牧師からのご挨拶

世田谷グレイスチャーチへようこそ!私はジョー・コンドンです。初めて日本に来たのは、1999年、早稲田大学の交換留学生だった時でした。東京に着いたらすぐに、日本人の優しさと都市の美しさに驚きを覚えました。東京は本当に素晴らしい場所で、多くの恵みとチャレンジに満ちていると思います。

2015年、ついに家族で東京に引っ越すことができました。月島地区に2年間住み、その後、三重に2年間引っ越しました。しかし、私たちの長期的な目標は、常に東京で教会を開拓することでした。やっと2020年に松原に移り、友人の大畑瑠花さんと一緒に世田谷グレースチャーチを始めました。世田谷は都心に近く、とてもフレンドリーで下町な雰囲気があるため、すぐに大好きになりました。2022年に岩崎光男さんファミリーがスタッフになって、2023年にもう一人の宣教師ジェイソン・シェーファ宣教師もチームに入りました。

人生はつらい。その現実を無視したり、避けようとしたりすることは、何の役にも立ちません。しかし、聖書には良い知らせがあります。神は私たちの近くにおられ、私たちの人生においてご自分を証ししないでおられたのではありません。私たち教会が願っているのは、世田谷の人々がイエス・キリストによって希望と癒しを見出すことができるようにすることです。

簡単に言うと、私たちの目的は、神様を愛し、世田谷を愛することです。

言い換えると、世田谷グレースは、世田谷の人々が神の栄光をあらわし、永遠に神を喜ぶコミュニティを広めていくために存在しています。人生で一度も教会に行ったことがない人も、赤ちゃんの頃からクリスチャンとして育ってきた人も、世田谷グレースで安らぎ、希望、成長、そして本物のコミュニティを見つけることができたらと思います。学生の方も、独身の方も、お母さんの方も、お父さんの方も、私たちと一緒に聖書を探求し、みんなの質問に答えてもらうために、気軽に飛び込むことができる機会を用意しています。当サイトのイベントに目を通し、何かお役に立てることがあれば、遠慮なくメールやお電話をください。

礼拝、イベント、聖書の学び会において、常にカジュアルでアットホームな雰囲気を感じることができます。どのようなイベントでも、誰でもいつでも歓迎します。どの背景があっても、あなたにお会いできるのを楽しみにしています。是非、世田谷グレースに来てみてみませんか。

教会のビジョン

世田谷グレースチャーチは、世田谷の人々が神の栄光をあらわし、永遠に神を喜ぶコミュニティを広めていくために存在しています。

教会の主な価値

① 好奇心(Curiosity)

神様は、地球上のどこであっても、神様の正しさと恵みの証しがないところはないと約束されました(使徒14:17)。神様の民としての私たちの責任は、あらゆる国の人々を弟子とし、父、子、聖霊の名においてバプテスマを授け、イエス様が命じておいた、すべてのことを守るように教え、被造物が神様の栄光を宣言する方法を証しすることです(詩篇19:1、マタイ28:18-20)。私たちが隣人に仕えながら、私たちは主がどのようにご自身を隣人に現しているかに好奇心を持たなければなりません。奉仕する方法、証しする方法、主の栄光を語る方法に常に好奇心を持ち、主の働く同労者として迷える人々に真理を明らかにすることに協力しなければなりません(1コリント3:9)。裁くよりも、訪ねていきます。答えるために聞くのではなく、理解するために聞きます。恐れではなく、忠実な臨在を実践する。主に属する者は主の声を聞き、主に従うことをよく知っているからです(ヨハネ10:27-28)。

② 祝い(Celebration)

主はいつも誠実で、あわれみ深く、正しい方なので、私たちは主の民として祝うべき大きな理由があります(詩篇96篇、詩篇126篇)。神様は被造物とその民を喜ばれ、尽きることのない喜びをもって私たちを高らかに歌うことを喜ばれる(詩篇104:31、ゼパニヤ3:17)。私たちは、神の良い贈り物や祝福を受けることで、常に神様の良さを祝っている人々です。私たちが通常の生活リズムの中で共に祝い、感謝し、共同体の中でごちそうを食べるとき、イエス様にある祝福と父の愛のすばらしさを証する機会がさらに与えられます。私たちが近所でお祝いをするとき、私たちは神のストーリーの重要な章を公の場で実行しています。すべての祝い事や祝宴において、私たちは主の贖いの完成を予告し、主との永遠の祝宴を指し示しているのです(黙示録19章)。

③ あわれみ(Compassion)

慈しみとあわれみは、イエス・キリストの福音の中心です(ルカ7:14、ルカ15:20)。教会としての私たちの召しは、イエスの模範にならって、隣人の必要を見抜き、あわれみを示し、犠牲的に愛することです。イエス様は仕えられるためではなく、仕えるために、また多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来たのです(マルコ10:45、ヨハネ15:13)。私たちは、イエスにならって愛しています。私たちは、自分がどれほど愛されているかを知らなければ愛することができないので、私たち自身が、キリストにおける主にどれほど深く愛されているかを悟らせてくれる御霊の力に、応答していかなければなりません(エペソ3:14-21)。みことばにより、水の洗いをもって、キリストからのあわれみを受けることで、他の人への愛とあわれみが自然と近隣に流れていくのです。私たちは、失われた人々に対する主の愛とあわれみの神々しい熱心の中に私たちを連れて行ってくださるよう、日々、主にお願いしています。